妄想の熱い食卓

夏に向かうこの季節。と書くと、坂の上に夏の雲が待ち受けるかのようですが、さにあらず。長ーい梅雨模様が続く気配‥。

そういえば、すっかり春も過ぎ去りました。江戸っ子が女房を質に入れてでも喰いたがった初鰹も北に向かい、また秋に元気で戻ってくれるのを願うばかり。

そんな今、庶民の味方の三番バッター(四番は?)、鯵が時期を迎えています。もちろん年中あちこちで獲れるけれど、この時期の鯵がふっくら旨いと思うのは、梅雨空に思うボクの錯覚でしょうか。ちなみに鯵は白身と赤身それぞれの魚の旨さを備えているそうで、焼く、揚げる、〆る(さっと煮るなんてのも粋だねぇ)と変幻自在にわかりやすく深い味は、なるほど紅白歌合戦の両組を行き来する存在だと納得です。

さて、目が澄んでいて、見るからに良さそうな鯵が目の前に‥。

そうだ、今日はスペインの海辺に行こう!

海沿いの道路から一本引っ込んだ路地の昼下がり。開け放たれた店の前では、焼き網の下の炭が熱を放つ。外の強い陽射しとは反対に、店内の暗がりがひんやり気持ちよさそうなこのお店。今日はこちらにお邪魔しよう。「コンニチハ‥、サカナヲ、ヤイテクダサイナ」「ハイ、イイデスヨ、ドウゾ!」

鯵を丸のまま皿に載せ、ガスオーブンに投入。しっかり焼き上げて取り出したる皿の上でサクッと身を開き、即座に、沸騰スタンバイ中のニンニク、オイル、唐辛子、たっぷりレモン沸々ソースを一気にジャーッと掛け回す。(オイル飛び散る‥)

暗がりの店内、外には眩しい陽射し。さあワインをコップに注いで‥

(我に帰った、ここは二ホンだ、それも自宅ぢゃないか‥)。

ボクが20年前から作り続けるこの料理は、おおつきちひろさんの本から習ったもの。料理人の料理でなく、アチラの家庭や食堂にありそうな素朴な料理がたくさん載っている本です。

日本にスペインバルが勃興して以来、洗練された店が増えました。でもそれ以前は店も少なく、ぽつぽつ点在する老舗料理店を訪ね歩いたものです。

一方、スペイン本国でも料理の洗練は目覚ましく、その反対にボクの好きな料理は古臭く、よく言えばトラディショナルなカテゴリーとなってくるのでしょう。でも考えてみたらボクは下町の酒場が好きで(今はもう行かないが‥)、タコぶつやお浸しで良い人間だから、他国料理についてもそれでよいのです‥。

ボクがスペインを歩いたのは’90年台の間で、今世紀になってはその土を踏んでいません。街並みは変わらずとも人や文化は移ろうわけで、Up-dateされないボクのスペイン観が古色蒼然なものでも不思議はありません。

そういえばバルミューダの寺尾玄さん、高校を中退した’90年にスペインをひとり歩いたと読んだことがあります(同年に同じ街を歩いたので覚えていた)。疲れてたどり着いたアンダルシアの古い街での記憶が、今に続くバルミューダの原点だとも。

それにしても、同じものを見ても聞いても、アウトプットは全く違うんだと改めて思います。かたや人の感性に訴える電化製品、かたや20年来変わらぬオーブン焼きですから‥。ハハハ‥

価値紊乱(カチ・ビンラン)

こどもの頃に、皆とこんな話題で盛り上がったことはありませんか。

究極の選択「カレー味のう〇こ」と「う〇こ味のカレー」、どちらを取るか!

ないですか‥。そうですよね、ボクのまわりだけですかね‥。でも、いまだに周辺の子供たちの間で議論されている永遠の迷題‥。

さて上の写真は、ときどき通り掛かる道沿いの食堂。バックヤード側の屋根に品書きが掲げられています。都市計画道路が開通して、裏側も道路に面することになったようです。一見、普通の品書きですが、ひとつづつ読んでいくと…、どれでも700円ではないですか。

「え、トンカツとコロッケ、それにサシミ(刺身でない?)が同じ値段‥。」

この品書きは手ごわいなぁ。「お前の価値基準は何だ?どうだ選んでみろ、どれでも均一700円だ。」

その悩ましさは、まるで冒頭の「究極の選択」のよう! まるで品のないハナシですが、この品書きを見て「・・・カレー」を思い出してしまったというわけです。

例えば「コロッケの方が好き」と公言し、普段は(価格幅のある)メニューから安いコロッケを選ぶ者が、トンカツとコロッケとサシミが同値段である場合、その中から迷わずコロッケを選ぶ自信があるか。お前が本当に好きなものは何なのだ! と問われているのだ。

‥‥。もちろん普通は、値段と品物を天秤にかけて考えるのだから、「本当にコロッケが好きなのか」などと、コロッケ原理主義者の踏み絵を踏まされる覚えも、必要もないだろうが‥。

それにしても迷うなぁ―。実際、信号待ちの合間に考えてしまった。やっぱりトンカツかなー。

ところがこの店、そんなに甘くない。上から見れば大きさはトンカツ、横から見るとミラノ風カツレツ(叩いて薄いヤツね)という代物を出してくるのです。要するに、「なんでも700円」ではなく「なんでも700円分」に揃えた店だったのですよ‥。(妄想です)

そんな話ありますよね。フローリングの杉とウォールナットが同じ単価であると‥?。その理由は「杉は無垢材15mm厚」、一方「ウォールナットは表層突板0.2mm+合板」だという訳です。

この杉無垢15mmとウォールナット突板0.2mm、これはお好みですね。ボクは杉無垢だけど。でも挽板3mm(これなら傷でも下地見えない)と言われたら、それはもう‥。

ところで先の食堂、実際はどうなんでしょうか。一度立ち寄って確かめてみたいところです。トンカツ‥いや、コロッケ定食ひとつ! ですかね。


梁を越えて

Q.「何故、貴社の新型車は年々大型化しているのか」

A.「人は年々大きくなっている。だからクルマも大きくなるのだ‥。」

ん?‥人は依然として日々デカくなっている。 そうだったのか‥。

随分前のこと、バイエルンにある自動車会社と記憶しています。経営幹部が新車発表に際して発したコメント(ほぼ意訳)です。このメーカーの Evergreenである、六●●のカローラとも呼ばれた3シリーズを筆頭に、少し前のモデル達の小さくてシュっとしたスタイルが個人的には好みだったのだけれど‥。どうやら同社は人類の肥大化と歩みを共にすることにした、ということのようです。(衝突等の安全基準が厳しくなる中、本当は止むを得ないコトだったのでしょう。最近は、ダウンサイズに舵を切るメーカーも出てきているようですね‥さすがに人類の巨大化をクルマが追い越したのか‥)

さて、人類のこれから‥、この迷題は置いておこう。

確かに戦後の日本人は大きくなりました。それを身の周りで感じるものの一つが往年の団地の室内。

近頃、昭和40年代の団地を連続して幾つも手掛けています(実はウチでリフォーム販売した最初の住戸も団地でした。何度か触れていますが、あの稀有なゆとりある敷地は素晴らしいと思うのです。)。色々と制約が有りながらも、ワイドスパンの南北開口という基本プランの良さと相まって、気持ちの良い住戸に変身します。が、それにしても住戸内を貫く「梁(はり)」は確かに低ーい。平均身長の男性でも、ちょっと腰を屈めるか、もしくは頭を下げたい程‥。その様子を見ていると、戦後日本の長足の歩みを思い起こします。

梁というのは鉄筋コンクリートの構造躯体であり共用部分ですから、当然撤去することはできません。そしてその梁に沿って居室が分かれる(箇所が多いので)ので、梁の下を引き戸や間仕切りが通る場合が多い。するとリフォームの際には(梁の高さに合わせた特注寸法の)洋風ドアを設置するのが普通に行われます。ですがそのドア寸法は、現代の室内ドアにしてはちょっと低い感じが‥。

そこで上の写真。

大きな室内窓の上部には梁が(左側ドアの奥まで)通っているのが見えますね。この室内窓の部分には、元々は大きな引き違い戸があり、廊下から台所への出入りをしていた場所です。その約2m幅の出入口を完全に閉じて壁をつくり、ガラスを嵌めました。背の高い新設ドアは、梁と重ならない場所としています。

こうして、リビングドアは梁下高の制約から自由になり、梁も「ただの白い梁」に徹することができる。室内が少しだけ縦方向に伸びやかになった感じ‥。たったそれだけ、ではあるのですが、そんなことが嬉しいなぁと思うのでした。