春の夜の夢

高台の住宅地、それも少し古い分譲地を歩くと見掛けるものがあります。それは大きな敷地に建つ邸宅が、主(あるじ)を失って朽ちかけた寂しそうな姿。

当時の区画は、最近の分譲地と比較しても広いものが多く、250㎡(約80坪)程度の敷地は珍しくありません。建物は立派で意匠的に素晴らしいものもあり、当時は目を見張る住宅だっただろうと想像します。(それ以上に、都内の一部には際限なく広大な住宅群もありますが、それは僕には無縁なので‥)

ただ、今となっては土地建物とも大きすぎて価格が嵩み、そのまま購入して(手直しの上で)住まう方が現れにくい場合が多いのです。殆どの場合に建物は解体され、敷地分割を前提とした買い手は、自ずと建売業者(もしくは不動産業者)となるわけです。

敷地を分割しても充分な面積があり、元々は大区画が並ぶ好環境なのですから、新築の戸建ては建てれば売れる。でもちょっと困ったのが、敷地の最低面積が定められた地区の場合。2分割すると、一方の敷地は建築ができないのです。例えば165㎡の最低敷地面積制限があるとすると、250㎡の敷地は2敷地にできません。

ボクが見掛けた建物もそんな制限のある地区内にありました。売らないのか、売れないのか。それとも、所有者間の揉め事なのか‥。いずれにしても随分と時が経ち、いつまでもそのままの姿で佇む様は、まさに春の夜の夢のごとし。そんな有名な一文が頭に浮かびます。

さて‥。春つながりで撮った上の写真は早咲きの桜、河津桜。河津桜の故郷は、南伊豆の河津(かわづ)ですね。修善寺から天城を抜け山道を縫って下り、海と出会うところ。

そんな山から開いた、眩しい海の広がりを思い浮かばせるのが、小説「伊豆の踊子」です。昨年末、ぽっかり空いた時間に北国の温泉気分に浸りたくて、川端康成の「雪国」を(何十年ぶりに)手に取りました。その流れで先日読んだのが「伊豆の踊子」。今回は海を間近にした明るい温泉場の気分で(舞台は秋ですが‥)。そのタイミングで、たまたま近所の河津桜も満開になったというわけです。

古典であるこれらを読むと、作家の描写の豊かさや言葉の美しさを改めて感じます。この歳になって、ようやく少しだけ‥ですね。たとえば、野の匂いを失わない、という清々しい言葉。旅芸人の心持ちを表したものですが、その表現の幅に感心するとともに、匂いまでスッと心に染みたような気がしたり‥。

二月も終わり。日も高く、長くなってきました。暦の上だけでなく春の芽吹きを、あちこちに見つけます。ウチのテラスにはオオイヌノフグリが顔を出しました。道端の雑草扱いですが、小さな青い花は素朴で可憐、いかにも野の花という風情が良いと常々思います。とても名前とは似つかわしくありません。ご存知かも知れませんが、漢字で書くと大犬金玉ですからねぇ。

山小屋からこんにちは

洗練とはかけ離れた素朴な室内、リフォーム後に販売した住戸です。厨房の中から食堂(そう呼びたい感じ‥)側を覗いています。

住戸中央に厨房と食堂、その南側(主開口部)に居室が二つ並ぶ昭和50年代半ばの典型的間取りです。通常、この間取りの場合には食堂に窓がなく、南側居室の(引戸を開けて)採光を得ることになります。ですのでリフォームの際には、食堂に光と風を取り込むようにプランをあれこれ考えるのですが、本件は凸凹させた住棟計画が幸いして食堂に窓がありました。では基本プランはそのままでいきましょー、というわけです。

厨房の水廻りや排気位置は変更せず、食堂との間を閉じていた壁を撤去して、背面カウンターを造作しました。カウンター上部には写真の通り躯体の梁が下がっていたので、カウンターの天板を延長させて、床から側面→カウンター天板→側面→梁下に棚を間口左右一杯まで、同じ材料・奥行のまま一筆書きのように木製天板を走らせました。シンプルですが、ちょっと面白いカタチになりました。

食堂に目をやると、奥には山小屋かログハウスのような壁。これは木目のビニルクロスではありません‥(ていうか、木目クロスを貼るなら、わざわざ安そうな杉板の模様にはしないですかね。僕以外は‥)。これは無垢の羽目板、それも節のある杉なので見た目にログハウス感がモリモリです。見た目だけでなく、近くに寄って触れてみると、暖かで厚みもあり素材に包まれるような安心感があります。壁一面の無垢材は目線に近い分、床材として使う以上に五感に訴えるものがあるかも知れません。

この住戸には、同じく杉材の扉なども採用しており、杉濃度が高め。購入されたのは、そんな素朴な感じがお好みで、お母さん自身が(スタジオ)ジブリ大好きとおっしゃる親子でした。

そのジブリですが、実はこの物件(に限らずウチの物件)の設計から現場までを担当した女性は、ジブリ美術館の建築工事に関わっています。ジブリ側(あの人たち‥)と設計側(&ゼネコン?)、両者のかみ合わない言葉を翻訳(!)する仕事に(途中から)引っ張り出されたのだとか。要するに、四角いものは四角くないといけない設計側と、そんなこととは違う世界の住人側では、造れるモノと創りたいモノが食い違ったようなのです。ジブリ側の誰か曰く「やっと話のできる人がきた!」だったそうです。言語が違うんですね‥(想像つきますよね、ハハハ)。

話は戻りますが、この住戸は床に無垢材が採用できない代わりに、壁に羽目板を使ったという経緯があります。素朴な雰囲気が好きで何度か使っていますが、せいぜい壁一面とプラスアルファ程度です。不特定少数(!)の方に向けての販売用住戸ですから、その程度で止めています。(濃すぎは禁物ですから)←って充分濃いか‥。

でもログハウスのように、ひと部屋だけを全面無垢材で囲ってみたいですね。できれば、窓の外に緑を望む部屋を選んで。緑の眩しい昼間も、しんと寝静まった真夜中も、きっと落ち着く居場所になるでしょう。山小屋にようこそ!

風の時代に

二世紀あまり続いた「地の時代」から、今まさに「風の時代」に切り替わるのだそうです。フムフム‥。それは、星模様についての話。星読みライターの石井ゆかりさんという方が書いておられました。

「地」が象徴するのは「物質的な事柄、所有と獲得、資本主義、そして地縁、血縁」。それに対して「風」は「コミュニケーションや関わり、知、情報、論理、テクノロジー、そして出逢い、友情、ネットワーク」なのだそうです。

たしかに、長きに亘り地縁(と血縁も?)の中に生きてきた我々の社会。ここ数十年で徐々に変化し、(良きにつけ悪しきにつけ)その呪縛から解かれてきました。それは、地から風への離陸準備なのでしょうか。これまでと違う形の自由を獲得して謳歌する代わりに、新たな孤独や制度の崩壊などに向き合いながら、ここまで来ました。

同じく時代の変化を表現する言葉として、(もう少しミクロな話ですが)「所有から共有へ」や「モノ消費からコト消費へ」というのもよく聞きます。これも「地から風へ」に符合する変化なのかもしれません。

そんな流れのなかで、ここ数十年当たり前だった「家を買うこと」は、どこに位置するのでしょう。読んで字のごとく、持ち家は「地の時代」の産物である「所有」する「モノ(消費)」なのでしょうか‥。

確かに持ち家は所有物、でもモノ消費とは違う気が‥。つまり、(家を資産としてでなく)心地よい暮らしを整える目的で所有することは「所有するからこそできる、究極のコト消費」だということ。自分の空間に注ぐエネルギーは、霧散したり無駄になることがありません。「コト消費」と称して各産業が販売促進する、例えば旅や経験などと比べても、「コトの濃度」は勝るとも劣らないと思うのですが如何でしょうか。

というか、そもそも「モノ消費」は前時代的と見られるけれど、単にモノを買って満足していたわけではないでしょう。モノが持つ文化やストーリーこそが買われた場合も多いはず。逆に今、所有から利用へと分類される物品(モノ)には、思い入れを込めるストーリーが希薄になったことも原因ではないかと思います。だって大量生産、大量消費。もはや「モノなんて」別に有難いものでないのでしょうから‥。

…話が逸れました。この先、世の変化はますます加速するのでしょう。でも長い「地の時代」に成熟した文化やそれを愛でる暮らしは消えることはないでしょう。「時代が変わる」と言われる今だからこそ、浮足立たずに落ち着かないといけませんね‥。

所詮人生は旅であるし、世界も随分と狭くなった。そんな世の中でも、旅の拠点となる港、つまり拠り所となる自らの住まいを整えておきたいものです。

但し、これから始まる風の時代。うんざりするほど人が密集する都市部などからは距離をおいて軽やかに暮らすことが、二世紀を跨いだ今となって再び現実的になってきたのかもしれません。

ワルザザード

この街にはオアシスがあった

ある知人から来た年賀状に、メディナ(旧市街)でのツーショットと砂漠に浮かんだ駱駝のシルエット。文面には「昨年早々に出掛けたモロッコが最後の海外旅行になりそうです」。

送り主は元上司。ふた回り近い歳の差にも関わらず、(僕の新人時代から)友人のように接してもらい、付き合いは30年に亘ります。その年賀状を眺めて不思議な感慨を覚えたこと…。

僕にとってモロッコは30余年前、初めての海外渡航先だったから。昔むかし年下の僕が初めて渡ったその地に、今、大先輩が最後に辿り着いたという(実際は最後にならないと思うが)。30余年の時空を越え、終わりと始まりが逆さまに繋がってメビウスの輪のようだ‥と、思ったわけです。

2000年代後半からは、お金がなくてもiphoneがあれば(お金があるなら昔でも‥)世界中をスマートに旅することが容易でしょう。一方当時の僕は、格安チケットを握って(いや、それさえ持たずに)、ひたすら乗って歩いて(当時は正しい方向に進むだけでも難儀したもの)、見て食べて空気を吸い込むだけの旅です。小さなボストンバッグの中には、飛行機のタイムテーブルと、破った「地球の歩き方」が入っていたはず。

当時の道中は、相当に変わった(失礼‥)日本人と出会いました。早大探検部の連中はアマゾン帰りだし、超ショートヘアにした女性は単身サハラ経由でマリへ写真を撮りに行くと言うのだし‥。

写真はアトラス山脈の向こう側、砂漠に向かう拠点となる街ワルザザード(砂漠の民ベルベル人の言葉で、誰もいないところ(何も聞こえないところ?)‥という意味だったと思う)。そこではフランス人と商用で来ていた商社マンとも同席し、留学生かと問われ違うと答え、オイラもいつかそんな風に海を渡ってビジネスをするんだ、と思っていた‥筈なのですが‥。

欧米人にとってモロッコは、当時からエキゾチックな観光地という位置付け(映画スタジオもあるゾ)。だが、金のないアジアの若造(今もないが‥)にとっては、そんな贅沢とは違う(ちょっと)タフで憧れの地でした。そういえば、あちこちで「アチョーッ!」とされたっけ(当時、アジア人とはブルースリー。こっちが構えると、皆がスッと引く‥(笑)。ちなみに写真は、地元の皆を従えたところだ。フフ‥uso)

そんなオイラが、高校から大学時代まで学んだ第2外国語はドイツ語。だけど突然にマグレブの国(日沈むところ、という意)に呼ばれてしまって‥。出掛けた先はフランスが旧宗主国だったり、地中海側ばかりで、ドイツ語は一度も使うことなく忘却の彼方となったのでした。

でもそのおかげで、乾いた光や風を受け、土から生えたような(日干し煉瓦の)カスバ(城塞)を目に焼き付けたことが、今に繋がっているのかもしれません‥。

それは、「家はそれでいいのだ」ということ。シンプルで、ちょっとラフで良い。タイル貼りよりも白い壁、高層よりも地面に近く‥なんて言っていることも。

そういえば、ドイツ語は忘れた頃にやってくる。あれからずいぶん経って、買った伊車が独からの並行輸入(正規輸入していない)だったという話。となれば取扱説明書は独語のみ(何とも不親切なことだが‥)。何も今になってドイツ語が登場しなくてもねぇ。ということで錆びた頭の上を文字が滑り、図しかわからん。まあいいや、走って止まって、ライトが点けば‥。

つまり、「クルマもそれでいいのだ」ということにした訳です‥。