木洩れ日

秋も最終コーナー。夏には頭上から照りつけた太陽も、あれよという間に低くなり、樹々の間から顔を出しています(木と自分の位置関係によりますね‥)。風に葉が揺れるたび、部屋の壁に映る影がきらきらと光る午後、晩秋を実感します。

テラスにひらひらと舞い降りていた枯葉が、ある時ドサドサ(!)と降ってくると秋も終わり。すっかり葉の落ちた枯れ枝を通して届く光は少し弱々しく、まるで自分が林の中に入り込んだかのような気分になります。

晩秋から冬にかけて、そんな木立の中に注ぐ「木洩れ日」は穏やかで心に染み入ります。一方、同じ「木洩れ日」でも躍動感があるのは、夏の強い陽射しと青葉がつくる光と影。季節によって全く違う顔を見せる木洩れ日です。聞くところでは、この木洩れ日という表現に(直接)対応する英訳はないのだそうですね。光と枝葉と影、これらが創る世界の切り取り方は日本独特のものなのかもしれません。

ちなみに、木洩れ日は季節を表す季語でもないようですから、「木の間から日が洩れれば、即ちこれ木洩れ日」ということでよいのかな。(違っていたら、失礼‥)

ふと「こもれび」で思い出したこと‥。

関東平野が途切れた先、山々が連なる丹沢エリア。その東端には幾つかの温泉が湧き、小さな宿が点在しています。厚木からほんの少し山に入るだけ、と都心部から至近、もしかしたら最も近い温泉郷かもしれません。

旅行に出掛けよう、と気負うこともなく其処に居る。そんな、日常の傍らにある身近な非日常、とでもいえる場所。ただ、ふらりと夕焼け小焼けを見に行くような‥。

そんな山の懐に、晩秋の木立ちが似合う素朴だけれど端正なお宿があります。そこに付設する小さなバー空間の名前が「こもれび」でした。バーとはいうものの、少し早めの到着時や夕暮れ時、もしくは風呂上りのビールを一杯楽しむような、ささやかな場所です。

二十年来、幾度も訪ねたそのお宿。山の食膳、漆の浴槽と豪華ではなくとも人の手が入った居心地の良さがあります。最近は随分とご無沙汰ですが、木洩れ日という言葉とともに、晩秋の東丹沢を思い出しました。

時間とお金を掛けた華やかな旅行はもちろん格別ですが、日々の暮らしの隙間に置かれた小さな旅、それも良いものです。

いよいよ冬が近づいてきます‥

かくれんぼ三つかぞえて冬となる -寺山修司-

振り向くとそこには‥。

それならば、ひとぉ~つ、ふたぁ~つ、と、ゆっくり数えてみようかな(笑)

ノマド ー 放浪と旅 ー

終わりがあるのが旅。

旅をするのは帰るため。

終わりのない旅は放浪でしかない。

伊豆大島を舞台にした深夜ドラマに、そんな(感じの)セリフがあった。片桐はいりさん演じる主人公は裁判官を辞め、この島に辿り着いた。そして港の小さな居酒屋で働いている(毎回必ず、客の目の前に焼きたての「くさや」が出てくる‥笑)。彼女がある日の客に「もう明日は帰るの?」と問うと、島をふらりと訪れていたそのサラリーマン男性は、冒頭のような意味の言葉を発した。

それを観ながらボクは、「放浪でしかない」と言うけど「放浪もいいじゃない~」と思ったが、すぐに「そうだよねー、実際問題として放浪というのは難しいよねー」と思い直す。放浪という響きにはロマンがあるけれど。

そう言えば、よく耳にする「終わりのない旅」というのは「放浪」と違うのか?‥まあいいや。

‥放浪かぁ‥

春のことだから少し前になるが、久しぶりに大スクリーンで映画を観た。ノマドランドというアメリカ映画。ノマドと聞けばアジアや中近東の遊牧民を想うが(ボクは北アフリカの砂漠の民も想起してしまう)、この映画では、自ら大型バンを駆って(暮らしながら)大陸を移動し、季節労働、非正規労働で日々の糧を得る人々を指すのだろう。主人公も夫を亡くし、その勤め先だった企業城下町ごとの閉鎖という憂き目にあった。

米国社会に広がった格差と、その足元での過酷さが描かれている。その一方で、アメリカが生まれながらに持つ遺伝子(とでも言うのか‥)、つまり広大な大地と、そこを移動しながら何かを希求し続ける強さを感じる映画でもあった。凍てつく山々や地平線の向こうへ進もうとする主人公の中に、タフで骨太な、何か希望のようなものさえ見えたように思う(単なる主観です)。

とは言ったって、アメリカだって無限ではない。事実、西の果てには海があり、南に行けば国境の町があるのだから。以前、何かで読んだのだが、南の最果てには、放浪の末に辿り着いた者たちによって開拓された農園があるのだという。たぶん、放浪にも終わりがあるのだろう。

ところで、冒頭の「伊豆大島への旅」に絡めて思うこと。たしかに船での移動は、それが単なる「移動」ではなく「旅」のようだ。それがほんの僅かな乗船時間だとしても。港を出る、海から対岸へ、そして港へ。ただそれだけで旅になる(旅する気分になる、と言った方が正解か)。あぁ、やってきたな、と思うのだ。

冒頭の彼が言う通り、旅には終わりがあり、そこには港がある。例えるなら、住まいは日々の暮らしにおける港だろうか。一日の航行を終えて帰港するように、家路を急ぐ。明かりを灯し、荷を下ろす。あぁ、帰ってきた、と安堵できる場所であると良いと思う。

先日もひとつ、小さな港が完成した。壁に嵌め込まれたのは、複数のステンドグラス。かつてのご実家の一部であり、その後は大切に保管されていたという建具。そして今、時空を越えて新しい住まいに継承された。とても温かで、唯一無二の港になったと思う、にゃあ(港には猫が似合う。事実、この港には猫がいるのだ)。

きらきら光る

ここは津和野ではありません(‥わかるよ)。それでも、幅広い水路と石積み(風)の護岸があり、秋の陽射しを反射しながら水が流れる風景は、普段見慣れた街角とは少し違って、ゆったりとした気分になります。水路の中に鯉は見当たりませんね(笑)

多摩川にほど近い町の一角。この辺りは400年以上も昔に、多摩川の水を引き込んで新田開発された歴史を持つ地域です。この水路もその末裔でしょうか。100m程続く開渠になっており、大区画の敷地がそれぞれ橋を渡して接しています。従前からの屋敷のようですから、昔の面影を残す風景と関係があるのでしょうか(水路は官有でしょうが)。

ところで‥。ボクはこの「水路のある町」に程近い「丘陵エリア」で、リフォーム&販売を随分と手掛けてきました。その反面、(思い起こすと)そこから坂を下った多摩川沿岸エリアは殆ど実績がありません(近いのにちょっと極端ですね…)。最寄り駅までフラットで近い、ということは買い物などの利便性も(それなりに)高く、日常生活には却って好適です。というよりむしろ、平坦地が好まれる方の方が多いですよね。

逆に、丘陵(急陵とでも書くべきか‥)を選ぶのはちょっと物好き‥。いやいや、違いの分かる人‥と、いうことにしておきましょう。いずれにしても緑のある風景はいいですね。

つまりボクは坂道があり、そして(必要以上に‥)樹々の茂る場所をつい選んでしまう。その積み重ねの結果として、物件が偏在したということ。便利だから、人気だからという理由では、なかなか別の方に目が向かなかったのですね。

そうは言っても、水のあるところは素敵な場所が多いです。東京から見て多摩川の先(川の先、即ち川崎)と言えば二ヶ領用水。前述の通り400年以上前から田を潤してきた水のみち。川崎市北端部の多摩川から取水して平坦地を巡るく二ヶ領用水の本流は、(現在では)水辺と緑の散策路として整備されている箇所が多くあります。桜の名所であるにとどまらず、日常の風景として街に溶け込んでいる。言うならば、生活道路ならぬ生活水路とでも呼びましょうか。当たり前のようにそこに在る、そんなさりげなさです。

ずっと昔、ボクの祖父さんがオトーサンだった頃、有名な二ヶ領用水の桜を見るために一族で都心からはるばるやってきた。けれど(なぜか)見つからずに諦めて帰ったとさ、と聞いたことがあります。ということは、ボクにとっても因縁の二ヶ領用水‥。「お祖父さん、確かにここの用水路と桜は見事ですよ‥。」

そんな二ヶ領用水とそこに茂る樹々を臨む、素晴らしいロケーションの中古マンションが幾つか存在しています。以前から気になっているのですけど、なかなかご縁はありませんね‥。