ノマド ー 放浪と旅 ー

終わりがあるのが旅。

旅をするのは帰るため。

終わりのない旅は放浪でしかない。

伊豆大島を舞台にした深夜ドラマに、そんな(感じの)セリフがあった。片桐はいりさん演じる主人公は裁判官を辞め、この島に辿り着いた。そして港の小さな居酒屋で働いている(毎回必ず、客の目の前に焼きたての「くさや」が出てくる‥笑)。彼女がある日の客に「もう明日は帰るの?」と問うと、島をふらりと訪れていたそのサラリーマン男性は、冒頭のような意味の言葉を発した。

それを観ながらボクは、「放浪でしかない」と言うけど「放浪もいいじゃない~」と思ったが、すぐに「そうだよねー、実際問題として放浪というのは難しいよねー」と思い直す。放浪という響きにはロマンがあるけれど。

そう言えば、よく耳にする「終わりのない旅」というのは「放浪」と違うのか?‥まあいいや。

‥放浪かぁ‥

春のことだから少し前になるが、久しぶりに大スクリーンで映画を観た。ノマドランドというアメリカ映画。ノマドと聞けばアジアや中近東の遊牧民を想うが(ボクは北アフリカの砂漠の民も想起してしまう)、この映画では、自ら大型バンを駆って(暮らしながら)大陸を移動し、季節労働、非正規労働で日々の糧を得る人々を指すのだろう。主人公も夫を亡くし、その勤め先だった企業城下町ごとの閉鎖という憂き目にあった。

米国社会に広がった格差と、その足元での過酷さが描かれている。その一方で、アメリカが生まれながらに持つ遺伝子(とでも言うのか‥)、つまり広大な大地と、そこを移動しながら何かを希求し続ける強さを感じる映画でもあった。凍てつく山々や地平線の向こうへ進もうとする主人公の中に、タフで骨太な、何か希望のようなものさえ見えたように思う(単なる主観です)。

とは言ったって、アメリカだって無限ではない。事実、西の果てには海があり、南に行けば国境の町があるのだから。以前、何かで読んだのだが、南の最果てには、放浪の末に辿り着いた者たちによって開拓された農園があるのだという。たぶん、放浪にも終わりがあるのだろう。

ところで、冒頭の「伊豆大島への旅」に絡めて思うこと。たしかに船での移動は、それが単なる「移動」ではなく「旅」のようだ。それがほんの僅かな乗船時間だとしても。港を出る、海から対岸へ、そして港へ。ただそれだけで旅になる(旅する気分になる、と言った方が正解か)。あぁ、やってきたな、と思うのだ。

冒頭の彼が言う通り、旅には終わりがあり、そこには港がある。例えるなら、住まいは日々の暮らしにおける港だろうか。一日の航行を終えて帰港するように、家路を急ぐ。明かりを灯し、荷を下ろす。あぁ、帰ってきた、と安堵できる場所であると良いと思う。

先日もひとつ、小さな港が完成した。壁に嵌め込まれたのは、複数のステンドグラス。かつてのご実家の一部であり、その後は大切に保管されていたという建具。そして今、時空を越えて新しい住まいに継承された。とても温かで、唯一無二の港になったと思う、にゃあ(港には猫が似合う。事実、この港には猫がいるのだ)。

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