避暑地にて

窓ガラスの向こうに透けて映る緑。
風景を切り取る白いルーバー。
床には素朴な無垢材が。
ちょっと涼し気‥、どこの別荘なのかしら。

いや、誰もそうは思わない。
「いつもの戯言。どうせ近所のリフォーム物件だろう」
「涼しくないし、汗だくだよね。エアコンも付けてないんでしょ」

果たして‥
おっしゃる通りでございます。

さて‥
この白いルーバーは、これまでにも幾度か登場したウッドシャッター。
つまり木製の建具。
写真は4枚折れ戸となっている。
無垢の羽根一枚を回すと、並んだ羽根も静かに追随する精緻なつくり。
そう、クルマでお馴染みの「ラックアンドピニオンギア」が内蔵されているのだ。
かっちょえー

クラシックな装いに、メカニカルな機構を内包させるなんて素敵じゃないか。
和魂洋才だ(違うな‥)

これまで過去に使ってきたシャッターは、羽根が水平方向に並ぶ横型ルーバー。
今回のそれは縦型ルーバー。
羽根の長さの関係で、横桟が入るのはしょうがない。
だって、びよーんと長くて、ぶらぶらする縦型ブラインドとは違うんだもの‥

ところで縦と横、いったい何が違うんだろうか。

それは見え方だ。
あたりまえじゃないか‥

もちろんそうなんだなー
ルーバーが固定式ならば、縦か横か、傾斜は何度か、によって特性がはっきりする。
ところがウッドシャッターは、くるりと(ほぼ)180°回転するものだから‥

あれを遮ると、これが見えてくる‥
あれを取り入れると、これが消えてしまう‥
朝だとこう、晩だとこう‥
横だとこうなって、縦だとそうなって‥
と、ややこしい。

まあどちらでもよいか。
いずれにしてもウッドシャッターは、
光と風と視線をコントロールする。
うまく3要素を組み合わせて、心地よい室内をつくりたい。

しかし、それ以上に重要な役割があるのだよ、ウッドシャッターには‥

そう、
「近所のリフォーム物件」をたちまち「避暑地」へ連れ去るクラシカルなその姿。
ぬるく湿った風は、高原を抜ける涼風となり‥
ぎらつく陽射しを受け止める羽根の間からは、野鳥のさえずりが‥

‥んなわけは、もちろんないが。
それでも羽根の色、大きさ、ルーバーの縦横などによって、避暑地に行ったり、洋館に忍び込んだりと楽しみ方はいろいろ。
なんなら細めの縦ルーバーを引き戸に仕立てれば、畳敷のお宿風もいいじゃないか。

一枚で部屋の空気を変える(かもしれない)ウッドシャッター。
悩ましいのは、ちょっとアレなこと‥

ご利用は計画的に、ね。

つきのころはさらなり

夕暮れ時の一瞬、吸い込まれるような透明感を湛えた空が現れることがある。

時を遡ること30年近く‥
休みは取れず、予定も立たない、休日にもボケベル(!)が鳴る、トホホ‥な20代。
真夏に突然、ポッカリと10日間の休暇を得たことがあった。

電光石火、チケットだけを握りしめ(いや、ちぎり取った「〇〇の歩き方」も)、格安エコノミーで機上の人に。
北回り十数時間のフライトも、窮屈なシートもへいちゃら。
そうだ、そのころは若かったのだよ。
そうそう、深夜着のマドリッドだろうと、晩の宿は決めていなかったし。

ということで‥
学生時代にも歩いた真夏のフライパン、アンダルシア。
どの街でも、どこにも行かない。
ふらふらと歩くだけ。
なかなか沈まない太陽のおかげか、遅くまで人で賑わう街角。
街の、なかでもバルの灯りは柔らかい。

彼の国には、あちこちに小さな広場がある。
狭い路地の先に広場が開けた。
思わず空を見上げた。
青味は消えて光だけ残る、天まで続きそうな透明感。
眺めていると空に吸い込まれそうだ。
こんな色の空があるのか、と思った。
ここはスペインだから?
それともポツンと異国に居る自分だから、そう思えるだけなのか?

帰国後‥
変わらずの毎日、夜空を気にすることもなかった。
光と喧噪の東京、夕暮れの空は見えない。
仕事場でも、顔はデスクや同僚を向いたまま。
高層ビルの窓外にも、大きな空が広がっていたはずなのに。

その後‥
会社を辞めたボクは郊外に暮らした。
ぼんやりと空を眺めていた夕暮れ時のこと。
「あの空」がここにもある!
と、ようやく気付いたのだ。
フツウに、当たり前に、当然に‥

いままで何をみていたのだろう?

陽が沈んで、真っ暗になる前の一瞬。
色が消えて「光の粒」だけが残ったような空。

どうでもよいことだけど、
なぜ今ごろ気づいたのだろう。
会社辞めたから?
夜が深い郊外だから?
それとも歳を取ったから?

まあ、なんでもいいけれど‥

風が抜ければ

博多、天神、中洲‥といえば福岡。
まだ日のあるうちから、街中にはリヤカーに引かれた屋台が集う。
それぞれが定位置につき、開店準備を始める。
歩道を埋め尽くすその数、100軒ではとても足りないハズ。
そう、この街は昼の顔から一転、郷愁を覚える(誰が?)ような風景に変身するのだ。

ど真ん中にある福岡銀行の本店前にも屋台が並ぶ。
ただでさえ日が長い西日本の、まだまだ明るいオフィスアワー。
海に近いからなのか、気取らず開放的な気分に包まれたまま、提灯の灯る夕暮れを迎える。
この不思議な光景は、彼の地に暮らしての印象的なシーンのひとつだった。

そして(当たり前だが)翌朝には、夜にあった光景が跡形もなくが消えているのだ。
いや、ひとつだけ残っているものがある。
それは、歩道に残る多数のシミ‥(笑)
スーツ着て仕事場に向かう身には、ちょっとオイオイ、だったことを思い出す。

以上は、30年近く前の記憶。
その後、これら屋台の営業は店主一代限りと定められた、と聞いた。
つまり、その店主が屋台を引けなくなった時点で廃業となる。
他の街では、戦後早々に消えていった屋台という形式。
寂しいかな、ここでも早晩消えゆく風景なのだろう。

と、思っていたのだが‥。
みなさん、結構しぶといの?(笑)
過去に何度か福岡に立ち寄ったが、まだまだいっぱいあるじゃない。
当時、ウチのMS買ってくれたHさん、まさかの現役なのかしら。
そういえば、お店で極上の刺身を出して貰ったっけ‥、(オッと‥ヤタイ、ナマモノダメョ)

ちょっと気になって市のWebサイトを覗いてみた。
なんと、新規屋台経営者の募集記事があるではないか。
店主の暮らしを守ることから、福岡の魅力を守るものへ。
ナルホド、時代は変わっていた。
内外問わず、観光に来た人にとっては、目を見張るような光景だろう。

でもそこは観光客だけのものではない。
日常を暮らすボクにとっても、心地よい場所だった。
あご(飛び魚)の炙り、そして麦(焼酎ネ)のお湯割り。
まだ陽は高く、屋台を風が通り抜けるのを思い出す。
22歳の若者にしては渋い趣味じゃないか‥
そう、ひとりではないのだよ。
当時現場で一緒だった自衛隊OBおじいちゃん先輩との大切な時間。
初めて訪れたのは、ちょうど今頃。初夏だった気がする。

今日は梅雨の晴れ間。
空は青い、抜ける風が心地よい。
そんな時、懐かしい福岡の風景が思い浮かんだというわけ。

風が抜ける心地よさ‥
屋外に椅子と小さなテーブルを出すだけで、なんと楽しいこと。

そういえば、久しぶりにルーフバルコニーのある物件を手掛ける予定。
もちろん「ルーバル」があろうがなかろうが、
「光と風の抜ける暮らし」を夢想した部屋づくりに変わりない。
だから淡々とやるだけで‥

とは言っても、20帖を超えるルーフバルコニーの豊かさよ!
その上、リビングに面して南側に広がっているのだから。
あれをしたい、これもしたい‥と妄想は膨らむもの。

でもね、使わなくてもいいんじゃない?
そう、あるだけで豊かってこと‥

せっかくルーフバルコニーがあるんだから使わないと‥
そんな強迫観念(?)から自由になりたい。
使わない(でもよい、あるだけ見るだけOKの)ルーフバルコニー。
なんだかわからないケド、それでもなんだか楽しいナ‥
そんな住戸(どんなだ?)にしようと妄想をしている、今日この頃。

思いきりアメリカ

窓を開ければ、南国の花のように華やかなツツジが咲き、樹々の緑も芽吹いている。
満開となった春が、夏の扉を開けようとしている今日この頃。
空もスカッと青いしね。

写真は年明けに工事を開始した住戸。
既に完成し、引渡しも済んでいる。
工事中から住戸内の様子を「チラみせ」告知を行っており、今回は春先の工事完成を待たずに購入者が決まっていたのだ。

「工事中ですけど、見ます?」
「はい、明日にでも!」

ということで、現地集合。
そう、ボクは出来るだけ自分の足で来てもらうことにしている。
迷ったり遠回りしたりして、第一印象は良くないかもしれない。
けれど、それでいいのだ。

今回も、それは散々な始まりではあった。
というのも、ウチは「光、風、緑」が眩しい物件が多い(単にボクの好み)。
ということは、(必然的に)山だったり、丘だったり、坂だったり、もするわけで‥。

「近くまで辿り着いているはずなのですが、迷ってしまって‥」
「今から行きます。そこを動かないで!」(救助隊か‥)

(無事、保護完了?)
「スーツケース持って、この坂は上がれません!ここ無理です!」
「ですよね。まぁ、せっかくですから室内を見ていってください。今日は電気工事していますけど‥」

翌日、連絡があった。
「スーツケースはタクシーに載せることにしました(笑)」とのこと。
‥(笑)

判断も、身のこなしも早い方。
そして止まらず、常に動き続けているようにお見受けする。
だからスーツケースが相棒なのだろう。

ボクはすっかり根が生えて、若い頃に描いた暮らし方とは随分違う(それでよいのだ)。
それ故、ちょっと眩しいな、って思う。
そんな方の拠点として、ボクの(可愛い)物件を選んでいただけたことが嬉しい。

おまけに、郷里の素敵なお品をたくさんに戴いた。
お礼を言いたいのはボクの方です。
Nさん、有難うございました!

土曜日に市場へ出掛け

ということで市場へ出掛けたのは、冬のおわり、春のはじまり。

川崎市の北部地域(横浜市との市境)には、市民の台所とも言える卸売市場がある。
正式には川崎市中央卸売市場北部市場。
通称、ホクブシジョウ。
て、そのまんまか‥

東京南西部の飲食店業者も仕入れに来ている。
豊洲や太田の市場より利便が良いのだろう。
ここは基本的にプロが集う場所。
けれど、週末の一日だけは一般人に開放される。

グルメ(と呼ぶと安っぽいな)、食べ歩き(これも‥)も素敵。
でも一方で、市場に通ってあれこれするのは別の楽しさ。
喧噪の中を歩き廻り、並ぶ食材に季節が移るのを感じる。
そして、見慣れぬ素材のあれこれを尋ね、言葉を交わす。
かご一盛り、またはキロいくら?の世界だ。

凝った器具や調理家電は使わない。
時短とか効率、これも言わないでおこう。
単純な道具を使って、コップに注いだワイン片手に、のんびりつくる。
なんかオイラ、趣味人「みたい」じゃないか!
なんてね‥

そんな場面が似合う住まいは、あまりお洒落じゃない方がよい。
水が出て、火が使える(だけ)の台所。
ダイドコ、といった風情のキッチン。
そうか、ウチのリフォームはそんな感じか‥

ところでオマエは市場で何を買ったんだ?‥だって?

うむ。その答えは上の写真の中に。
じゃぁ、ヒントね。
結構、深い海の中にいる。
ほわッと柔らかい、脂の乗った身。
揚げると旨いねぇ、丸ごといける。
そろそろ時期も終わりかも。
さて、なーんだ?(知らねーよ‥)

ちなみに小さいキンキも端のほうに写っているけれど、それではない。
だって、手間が掛かりそうだからな‥。
イチバウンヌンと偉そうな割りには、オイラは大したことないのだよ。

そういえば、手前にいるのは千葉産の金目鯛。
キンメ(キンキじゃないのよ、キンメは~)といえば、伊豆南部が有名だけど。

千葉産キンメ、ちょうど先日見知ったことがあったので、ここに。
金目鯛の漁獲量は、最近は静岡を抜いて千葉がトップであること(直近は知らない)。
そこには千葉の漁業者の50年以上に亘る厳しい自主規制があること。
資源管理によって、漁獲量の維持に努めてきたこと。
自由に獲れるものをグッと我慢してきた、多数の漁業者がいること。
千葉産の金目鯛、有難く末永くいただくこととしたい(今日も買っていないが)。

陽射しはすっかり春。
でも、まだ冷たい空気と梅の花。
市場で買った「めひかり」もそろそろおしまいか(なんだ、メヒカリだったのか‥)。
※深海にいる魚は年中獲れると、あん肝を前に板前さんから以前聞いたが、それでも季節はあるのだろう。

それはそうと表題は、ある国の懐かしい民謡から拝借。
いや、元々の歌詞は「日曜日は市場へ出掛け 糸と麻を~」だが、日曜休みだからね‥ニホンの市場。 
文学、演劇、料理。それにサーカス、バレエ‥
昭和の時代には、その国の香りが周りに色濃くあった気がするのだけれど。
ちょっと遠い国になってしまったな。

あるものはある

allowed by Studio GHIBLI

ないものはない!

スパッと、言い切る潔さ。
さて、その意味は次の①②のどちらだろうか。
①ないものはない
②ないものはない

なんだ、どちらも同じぢゃないか‥

ちがうちがう、そうじゃない。
①は「ないけど、それがなにか?」
②は「なんでもあります」

島根県の沖(おき)にある隠岐(おき)の海士町(あまちょう)をご存知だろうか。
知る人ぞ知る、そして知らない人も知っている(かもしれない)、地方創生の旗手。
この町は①の「ない」。
そして町のスローガンは「ないものはない」だ。

ないモノはないけれど、本当に必要なモノはある。
ここにないモノって、本当に必要なモノなのか?
ほしいほしいじゃ、際限ないぜ。
そんな心意気。
都会からも人が移り住み、活気が生まれる町がそこにある。
あれも有ります、これも有ります、と無理して飾っては(ヒトもモノも)本当の魅力は見えてこないのかもしれない。

ウチのつくる物件も、ある意味①なのか。
少なくとも②ではないことだけは間違いない。
追い焚き無いですけど、何か?
食洗器無いですけど、何か?
オートロック無いですけど、何か?
エレベーター無いですけど、何か?
(おーい、なさすぎだろ!)
でもさー、光と風が抜ける気持ち良い暮らしありますケド、何か?
なんて言ってみたいが‥

一方、②の「ないものはない」と言える代表格は百貨店(だった‥)。
ワンクリックで世界中から(結構)何でも取り寄せることができる昨今、
なんでもあるはず(だった)百貨店には転機が訪れているみたい。
ガムバレ百貨店!
君はこれから何を売るんだ。

そんな百貨店の全盛期に、こんなコピーがあった。

ほしいものが、ほしいわ

懐かしーッ、西武百貨店だよ、それ。
ほしいものは欲しいからほしいもの‥、と永遠ループの迷子になってしまう。
干し芋の‥?

当時は、既にモノが溢れている時代。
もっともっともっと(買え)、より便利に、より快適に‥
でももう、自分のホントウに欲しいものも自分ではわからないわ。
そんなことになっていた時代に放った、一本のコピー。
当時の西武だからこそアリだったのだろう。

でも、もっとモット‥の状態は今も続いているのかもしれない。
そしてそこから脱出する、①の流れも確実に‥

と書きつつ、風呂でこんなコピーを思いついたのだが、どうだろう。

ほしいものは、ぜんぶ私のなかにある

これではなにも売れませんなあ。
-おしまい-

いただきます、がききたくて。

「和室の暗い押入が抜けると、台所だった」
文学的に描くとこうなる(どこがだ?雪国か‥)

「部屋の底が白くなった」
文学的に‥(しつこい!雪でなく、石膏ボードが散ったのか‥)

つまり、和室にあった押入の壁を突き破るとキッチンが現れた、ということ。
上の(リフォーム後の)写真は、今はダイニングエリアとなっている元・和室側からキッチン方向を見たもの。

行燈部屋だったキッチンに、窓外の光と緑の景色がつながった。
ここまでは既定路線だ。
さて、それからどうする。

ようこそ、「酒亭 いけだや」へ‥
ということで、毎晩一組だけをもてなす料理屋をつくることにした。
ハハハ、そんな訳はないけれど。

ちょっといいじゃないですか、この距離感。
作り手の顔は見えるけれど、手元は見えない。
一線が引かれた感じ。
向かって右側には落ち着く程度に袖壁を出して、上部が縦格子だから圧迫感がない。

一般的なプランだと、キッチン天板を延長したテーブルにハイスツールの組み合わせ。
それはそれで軽快な雰囲気が魅力的だけど、もう少しなんかこう‥

そこで、しっかり足を着けて座る椅子とそれに合う高さのカウンターテーブルに。
その先にはもう一枚のカウンター、惣菜を盛った大鉢でも並べてみたら‥
どうでしょう、小さな料理屋のようではないですか。

なんて言いながら、テーブルの上下左右に電源を用意した。
だって、酒亭みたいに使うわけないじゃん。
キッチンにいるお母さんのそばで子供が勉強するのにいいですよ。
レンジフード壁の前はPC開いておくのに良いですね。
なんて、営業が言うのがふつうじゃないか。

と言いながらカウンター下にも電源付けているのは、小型のワインセラーを置けるように。
そしてもっと言うと、上部電源はビールサーバーを置けるように。
そうそう、小料理屋というより居酒屋で見掛けるレイアウトだ。客席側にサーバーが置いてある、気取らない大衆酒場。
そんなイメージを捨てきれないボク、それでやたら電源をつけたというわけ(これはすべて妄想です)。

そういえば、この住戸を購入いただいたご家族との会話の中で、
「それじゃ、ビールサーバーでも置こっかな(笑)」とご主人。
うふふ、もしかして「酒亭 〇〇へようこそ」ってなるか!
なんて勝手な想像を膨らませていたのも、ボクひとり。

ところで、この表題。
どこかで聞いたことのあるような、ないような。

そう、栗原はるみさん。
ご存知、料理家の彼女が初期の頃に出した料理本なのだ‥

なのだ‥
と見せかけておいて、セイカイのハンタイ。
本家本元の書籍名は「ごちそうさま、がききたくて」

オイラのは、作りながら、食べながら、話しながら‥
そんなイメージでつくったキッチンとカウンター。
だから「いただきます、をききたくて」
なんちゃって。

そう言えば昨年、栗原さんが語る連載記事が新聞にあった。
下田育ちのはるみさんが、別荘に来ていたご主人に見初められた話や、
ご主人を失くした頃、偶然知った佐野元春の曲を聴いて元気になった話、
是非本人に会いたい願いが叶い、自宅訪問を受けたらカッコ良すぎて腰引けたハナシなど‥
(昨年末の紅白にもおじさんチームで出ていたが、たしかにカッコ良すぎだわ‥)
飾らない伸びやかな感じが、彼女のレシピと同じだと納得した次第。

また更に余談の余談だが、魚屋(卸?)に嫁いだ娘さんによる連載(たしか季節と魚と料理だった)を随分以前に読んだことがある。当時、好感の持てる方だなと感じていたのが、今回この家庭にしてこの娘、なるほどナルホドと思う。

「ほんとうにいい人ね、いい人はいいね」
こちらも同じく文豪の作品から、(今度は)変えずにそのまま拝借した(笑)。
こんな風に言えたら良いと思う。
さて、どの作品だか、お覚えだろうか。

別邸

カード会社から毎月送られてくる会員誌。
表紙に書かれた「デュアルライフのススメ」に目が留まった。

いいじゃない、デュアルライフ。
二拠点生活でしょ、何か楽しいヒントが‥

ページをめくる。
ん、ゴールドコースト。
コンドミニアム、ホテル、レストラン‥
え、サーフィンスポット?
うーむ
日本との時差が1時間だから行き来が容易、なんですと。
おーい、ちょっと!

そうだよな。
こういう特集は「届きそうで届かない」が昔からお決まりだったよな、ウンウン。
いやいや、このご時世だ。
すぐに手が届きそうな読者が結構いるということか。
いずれにしても、ご縁のないハナシなのだけは確かなことだヮ‥

ところで、その「デュアルライフ」に釣られたのは、先日聞いた話を思い出したから。
その話とは、箱根に小さな別邸を持った女性のこと。

この女性は特別の資産家ではない。言ってみればフツーの人。
その別邸とは、随分と築年数の経ったリゾートマンション。
リゾート物件の例に漏れず、手の届きそうな価格。十数年ほど前には壱百万円台で売買されていたことさえある。もちろんその後価格が戻り、今はその限りではないけれど。

でもちょっと他のリゾートマンションと違うのは、設計者。
あのフランク・ロイド・ライトからアントニン・レーモンドという系譜に連なる日本人建築家による建物だということ。
そして、この方の下から多くの住宅系建築家が輩出し、それが現在にまで繋がっている。つまり現在活躍している良心ある建築家たちの始祖といえる人物だ。

例えば冒頭の写真は、そのマンション内の各住戸へと向かう開放廊下のもの。
しかし玄関は並んでおらず、面格子付きの居室窓も見当たらないのはなぜか。
実は、この廊下は住戸2フロア分の中間に位置している。
つまり、開放廊下が存在しつつも、廊下側居室の窓が廊下に面さずに解放されている。
そして、廊下に面する各階段室を半階分昇降することで上下階の各住戸にたどり着く仕組み。
余計なモノのない、なんと清々しい廊下。
そして照明は低い位置にある。下部だけが照らされた通路を歩くのは気持ちが良いのダ。

一部だけ見ても、このように細やかな工夫がなされた稀有な建物。
ちなみに、この建築家が設計した集合住宅は他に聞いたことがない。
だから余計に、手を入れて住み継ぐ意思を持った住まい手が現れる。
この女性もその一人なのだろう。

ところで別荘、いや別邸にはいつでも行けるわけでない。
せっかく持っているのに‥。
ついフツーのひとは考えてしまう。コスパ、わㇼーじゃん。

でも、行けない!イケナイ!と焦ることはない。
そこにあること、いつでも私を待っていること。それが日々を豊かにする。
別邸での暮らし、今度飾りたいモノなどを夢想してウキウキする時間。
行けないからこその、心の遊ばせ方もある。ということだろう。

ふーん、なるほどね。

樹々が茂り、草の薫りが濃い郊外。
都心に近い、別荘みたいな郊外。
そんな場所で、リフォーム済マンションを手掛けるボク。

ある意味、正真正銘の別荘には敵わないけれど‥
でも、ここは別荘かもしれない、と思える住まい。
それも無理なく手が届き、無理なく暮らせる住まい。
そんな住まいを、ひとつでも送りだすことができたら‥
そんなことを思う今年の始まり。

ガラス越しに見えたモノ

左右に並んだ二枚の写真。
左は玄関から洗面室の扉。
右は洗面室の内側の様子。

玄関から入ってすぐ、廊下との間にドアを新設した。大きな透明ガラスが入った白い扉は、白壁と馴染んで存在感を消しているので圧迫感はない。

なぜ、ここに扉を付けたのか。それは寒い玄関だけを切り離して、廊下を居室側の空間に引込むため。洗面室浴室に行くたび、玄関から侵入する冷気に「寒ッ‥」ともならず、穏やかな環境を保てる。

これは自宅を含めて何度か試しており、それなりの効果があるように感じている。物理的に寒暖を防ぐだけでなく、外側と隔てる扉がもう一枚あることで、心理的にも落ち着くことが理由なのかもしれない。

話は飛ぶが、開放廊下型マンションの場合、外廊下に面する居室の「落ち着かない問題」がある。他の居住者の通路であるから「壁に耳あり障子に目あり」、オーバーに言えばそんな環境で暮らしているわけだ。
通風のために窓を開けたい、自然光が欲しい、歌いたい、うーん、おもぃっきり放屁したい!
外廊下のある住まいでは、そんなささやかな望みが夢のように思えてくる(のか?)。

そんな時に、先の「玄関に扉、もう一枚!」と類似して「外廊下側に、壁と窓、もう一枚!」は有効な手段だろう。
なに、部屋が狭くなるって。
そうそう、狭くなる。(けれど、その隙間スペースもまた豊かな空間になるのだよ)
すると、元の「3LDK田の字型」間取りは成り立たないかもしれない。n+LDKという「不特定多数対象型新築分譲時プラン」とはGoodbye、の時かもしれない。

それでいいのだ。
予算や場所、間取りを縦横無尽にスライドして検討できることが、中古マンション購入の強み。予算を下げたり、場所を変えたり、そもそもの物件選びの基準を変えてみる。リフォーム内容の幅のあれこれも加えると、選択肢は無限大。楽しくなってきたゾ。

もちろん「目の前が外廊下でも、いいじゃないの~」という方が大多数かもしれない。
「将来売る時も、普通間取りの方が売りやすそうだし~」とか。
その場合には、これらは戯言として聞いておいてください。

さて、もう一度上の写真。
焦げ茶色の扉は(手前の白い扉とは違い)彫りの深いルーバー扉。羽根も無垢材で作られ、指一本でルーバーが回転する、ちょっとグレードの高いものなのだ。

2年ほど前、このドアをたくさん採用した際に誤発注をしてしまい、1枚がお蔵入り。いつかいつか、と言いながら機会を逸していたのだが、「いけださん、そろそろ使ってよ」の声に遂に日の目を見ることに。

玄関開けて、ガラス扉越しに見えるこの扉。
かなりカッコええス。
でもさ、洗面室にルーバーってどうなのよ。
うーむ、くれぐれもイタズラをいたしませぬよう(笑)

葉落ちて姿現る

小さな頃から晩秋が好きだった。
だって、秋の生まれだから。
いや、関係ないか。

空き地の野球、沼のザリガニ釣り(これは夏ネ)、森の秘密基地‥。
気付けば濃い色の夕暮れ、カラスと一緒に帰る時間。
家に灯る暖かい光、その傍にある静かで深い夜。
子供時代、そんな落ち着いた時間が好きだった。
ちょっと物思いに耽ってみたい感じ‥(オマエいくつだ)

でも今は、以前のようにこの季節を楽しんでいない気がする。
現実の憂いが多くなると、そんな余裕はないのよね。
それでも枯葉が舞う季節はほんの一瞬だから、晴れた夕方にはサクサク踏みしめて歩いてみたいもの。

さて、いよいよ樹々の葉が寂しくなってきた上の写真。
葉が落ちて姿を現したのは、今秋ウチで販売した住戸のお隣の住棟。
うーん、ステキじゃないですか。
この雰囲気、アレに似てない?と一瞬思ったハナシを。

アレって何?

それってコレ。
広尾ガーデンヒルズのなかでも、独特の雰囲気を持つ「イーストヒル」と呼ぶ区画がそれ。
日本らしからぬファサードは、米国東海岸を彷彿させる本格的デザイン。彫りの深いタイル、床の水平ラインに華奢な縦格子が美しいバルコニー、連続する小さな腰高窓‥。
落葉の季節ともなると、ここは晩秋のニューイングランドだ、ボストンだと思ってしまう。

とは言っても、彼の地に於いてこのような建物は比較的庶民的なものだろう。だから、それを彷彿させるデザインを纏った日本の高級団地という設定も微妙なハナシとは思うのだが。
ともあれ、異国が好きでそれだけでも嬉しいボクにとっては、このホンモノ感溢れるイーストヒル、これでいいのだ。

付け加えると、ガーデンヒルズには「イースト」でなく、もっと高額帯と位置付けられる好条件の区画が他にある。それらはデザインが異なっていて、モダンだったり、ジャパニーズ高級マンション系であったりする。

そう考えると「イースト」は本格的デザインではあるものの、広尾GHの中のワンオブゼムとなった。最初期の区画である「イースト」以降、それに続くニューイングランドの景色が現れなかったのは何故だと思うだろうか。

話は冒頭写真(ウチの住戸の隣ネ)に戻る。この住棟も、郊外では珍しい2戸1EVプランを採用している。つまり居室の前を通る開放廊下がないので北側にも窓が並び、スッキリと美しい。
これは広尾ガーデンヒルズと同じ形式で、事業主や設計者に強い想いがないと実現しないもの。両者とも’80年代初頭の物件だが、この頃は住宅(プラン)の質を上げたい設計者の気持ちに、事業主も同様の気持ちで応えることができた時代だったのだろう。
そうは言っても、高コストに耐えられる都心高額物件はまだしも、郊外で実現するのは結構難しかったはず。だから2戸1EVを採用している物件は極めて少ない(があるのだよ)。

それにしても2枚の写真、全然似てないんじゃないのー。という声が聞こえてくるナ。

うーむ、よく見ると確かに。似ているようで、実は全然違う。
そもそも冒頭写真は主採光面の反対側、つまり北側だ。腰高窓が並び、縦格子の階段が建物に取り込まれているからスッキリ見える。写真には写っていないバルコニー面が、イーストヒルのように端正なわけではない。妙な言い方だが、顔とおしりがパッと見には似ているということか。

それでも当時、郊外で2戸1EVを実現させたのは素晴らしい。
両面の採光、通風、プライバシー。
この希少な物件には、住んでわかる快適さがあるだろう。

このイーストヒルを設計した著名な建築家は、開放廊下(外廊下)型の集合住宅には批判的だったと聞く。まぁ、本心から好意的な建築家はいないだろうけれど。
プランの質を競った’80年代が過ぎ去り、バブルと呼ばれる時代を経て、「開放廊下型プラン×建築家ファサードデザイン」を掲げた高額マンションをよく見かけるようになり、今に至る。

そのような建築家コラボ(と呼ぶの?)マンションを数多く目の当たりにすると、当たり前のことではあるが、マンションとはつくづく経済性第一の箱であると実感する。もちろん居住性と経済性のせめぎ合いに葛藤する担当者たちが思い浮かぶし、表層に関わることになった建築家にも思うところはきっとあるのだろう。

そして、なにより消費者(というより住まい手)の迷いも一層強いであろうことも。