三人の日

ようやく立春。高くなった日射しと凛とした空気が混ざり合う感覚は、この季節ならではです。

春という字は 三人の日 と書きます あなたと私と そして誰の日?

と始まる懐かしい歌は「春ラ!!!」。石野真子さんのヒット曲、ご存知ですか(一体、誰に聞いているのか‥)。続く歌詞は、

あなたが好きになる前にちょっと 愛した彼かしら 会ってみたいな久しぶり 貴方も話が合うでしょう 三人揃って春の日に 三人揃って春ラララ♬

‥というもの。なんでそんな男と会わなきゃならんのだ‥。

今改めて考えると、とんでもない歌詞ですが、まあそれはいいや。当時小5だったボクにはどうでもよいこと。春には感傷的な歌が多いですが、この歌はカラッと振り切っていて、これもまた良しか‥。

ちなみに、手元の常用字解(白川静著)で確認すると、「春」という字の由来には、当然ですが「三人の日」はありません(笑)。草が力強く生えてくる様を表す中国2000年前の文字が元になっているのですね。

真子さんといえば‥。ボクが中1になる頃、(ゴダイゴ〈GO DIE GO、つまり輪廻転生か〉がテーマソングを歌う)ポートピア博覧会に行こうぜ!と友達と二人、神戸の叔母を頼って出掛けたことがありました。

海に浮かぶ未来都市ポートアイランドは、残念ながらあまり記憶がありません。覚えているのが、灘中高の校門(アホか‥)、そして石野真子さんの実家界隈(叔母に教えてもらったのだ)。どーでも良いことだけ覚えているものです。

そう、当時のボクは真子さんのファンだった。サインだって書けるゾ(あと王貞治さんもね)。そういえば、大人になってから神楽坂の酒場でお見掛けしたこともありました。うふふ、ご縁があるのだよ(ナイヨ)。

せっかく辞書を持ち出したところで、ひとつ。

忙しいの「忙」という字は、「りっ心べん」と「亡(ぼう)」からなるので心を亡くすという意味だ、とよく聞きますね。だから忙しくしてはイケナイ、心をなくすから、と。

常用字解によると、「いそがしい、あわただしい」の意味に使用するのは、唐の時代以後のことだそう。それ以前には、ぼんやりとした様子を表していたようです。

もうすぐ春がきます(いや、もう来たのか‥)。忙しくすることが多くなる季節。忙しいことを嘆くより、忙しさのなかにもボーっとして、春の陽射しにぼんやりと心を遊ばせる隙間を持っていたいもの。

いつもテキパキと如才なく張りつめているよりも、茫洋として捉えどころのないところに案外、本物が隠れている、なんてことがあるかもしれません。

閑話休題‥。あ、閑か‥。

閑忙という言葉がある通り、閑と忙は反対の意味ですね。でも、古くはどちらも似たようなもので、ボーっとしていたのかも‥。皆が忙しくするこの季節に、ぼんやりと春を待ちわびている自分。まぁそれもいいじゃないか、なんて思おうとしてみたりして‥。

絵に描いたような

グランマ・モーゼス、つまりモーゼスおばあちゃんはアメリカの画家。四季がめぐる農村の風景を描いた絵画をたくさん残していて、(その時代や場所を体験していないボクにも)なぜか懐かしく、つい見入ってしまう。

きっとアメリカのどこにでもあっただろう原風景も、季節が移れば舞台も変わる。春には春の、秋には秋の農作業や集いがあって‥。そんな自然と人がつながった暮らし。その暮らしの楽しい記憶がぎゅっと詰まっているような、そんな情景です。

苦労を重ねながら歩んできた、農場暮らしの一主婦が絵筆を取ったのは、なんと76歳の時。それから四半世紀に亘り描き続けたキャンバスには、眼前の風景と一緒に長い人生の記憶が織り込まれているのでしょう。

いくつになっても始めていいんですよね。長い時の蓄積には、即席ではつくれない宝物が眠っている(ことが人によっては、ある)かもしれません。そんな彼女の背景を知って、絵もさることながら、その生き方暮らし方に想いを馳せたボクでした。

ちなみに今回、彼女の絵を見てふと思い出したのは、(これまた古いのですが‥)TVドラマ「大草原の小さな家」。そう、毎週土曜日の夕方でしたね、インガルス一家の物語。(ボクが主役と認識していた)次女のローラは、原作者であるローラ・インガルス本人ですから、きっと自身の体験に根差した物語です。このドラマの舞台は19世紀後半の西部開拓時代。調べてみると、そうです、ローラとグランマ・モーゼスは同じ時代に生まれ育った同世代だったわけです。

そんなこともありボクは、子供の頃に(テレビで)観た大草原の暮らしを、この歳になって見る絵画のなかに見出して、懐かしく思ってしまったのかもしれません。まるでボクがこの農場に暮らしていたかのように。

古き良きアメリカ、普通の人々を描いた絵画(いや、イラストか)といえばノーマン・ロックウェル。その作品は、きっと誰もが目にしたことがあるはず。それ一枚を壁に掛けるだけで、ノスタルジックなハンバーガーショップが出来そうです(笑)。幸せな気分になる絵が多くて良いですね。でも、それより少し前のアメリカの情景を描くグランマの絵画には、また違った、心の別の場所に訴える何かを感じたというわけでした。

そういえば、もうひとり画家の話。昨年リフォームをご一緒した方から、スウェーデンの画家カール・ラーションを教えられました。購入&リフォームの際に、お好きな画家を挙げてくださったわけです。

こちらもまた、スウェーデンで人気のある画家。北欧家庭の日常や室内の風景、屋外での柔らかい光や風を感じる風景と人物、それらが幸せな空気感とともに描かれています。

もちろん物件選びやリフォームにあたって、その絵そのままをカタチにできるものではありません。だからこそ却って、ラーションの絵を見ながら、その方が思い描いているだろう空間や陽射しの質感を想像する機会を持つことができました。

果たして、たっぷりの陽射しと手触り感を纏って完成した室内は、「ラーションの絵画と似て非なるもの」ではなく、反対に「ラーションの絵画とは非なるも似た雰囲気」を感じるものになったと(ボクは勝手に)思います。

まあ実際のところ、ご本人がその点についてどう思われているのかは、ちょっとコワくて聞きそびれましたが‥(笑)

代々木の杜から

正面に見えるは代々木の杜

ここはどこ?

実はウチの旧事務所。創業時から10年間に亘って、渋谷区代々木を本店所在地としていました。

写真データを整理していて見つけたもので、心なしかセピア色(データだからあり得ないが‥)。2009年の入居後間もない頃のものでしょう。まだ何もありません。‥というか、10年経っても何もないまま、様子も殆ど変わりませんでしたね(笑)。

ともあれ、これは当時の写真。窓の外、左隅にチラと見えるのは代々木の通称ドコモタワーです。このタワーはデザインが素敵で、基壇部は太く大きく、高層部に向かって段々に絞られています。そう、まるでマンハッタンで初期に建てられた高層ビルディングを彷彿とさせる、ちょっとクラシカルな印象があるのです。

夕闇が迫ると、窓外にこのタワーのシルエットが浮かび、その左手奥には西新宿高層ビル群が煌めいて見えました。たくさんの社員が集って働き、遅くまで灯りの消えない(自身もそこにいたはずの)ビル群を遠くに眺めては、一国一城の主(古っ!)になった感慨と、その裏腹に雑居ビルの一隅でポツーンと独りに、何とも言えない気分になったことを思い出します。‥これまた今でも変わらないのですが。

さて、この事務所のど真ん中に鎮座するのは、杉の厚い天板。長さは2枚合わせて4m超あり、事務スペースと接客スペースを連続させた大テーブルとしていました。今、これを眺めていて何か見覚えがあるなと思ったら‥。

そう言えば、昨年の物件(自社販売とリフォームサポート物件の両方)で造作したのが、長さ4m級キッチン。コンロやシンクだけでなく、家事や軽食など多用途カウンターを付設する木製大型天板です。旧事務所のレイアウトとなにやら似ています。どうやら「バーン!と長いの」が好きなのは当時から変わっていないようです。

それを言うなら、この旧事務所。床も杉無垢材を貼っているし、壁は漆喰のDIYです。なんだ、今のウチの物件と同じじゃないか。

ウチはまだ13年、老舗ではありません。でも先日の投稿でも挙げた、老舗を揶揄する「名物にうまいものなし」ではないですが、同じに見えながらも変わっていかなければいけませんね。

先日、僕より少し若い知人から連絡がありました。大手を辞めて会社を興したとのこと。そして、なんと偶然にも事務所は代々木に置いたというのです。手探りで、緊張した面持ちで一歩一歩確かめるように進むさまが、とても懐かしく感じられます。相当の覚悟を持ってひとりで歩き始めた、ボクの若い友人にエールを送りたい。「がんばれ!オイラも思い新たにガムバルぞ!」 年明けの青い空を仰ぎ、そんなことを思ったのでした。

あ、ちなみにボクの現在の事務所は代々木にはありません。いまはウルトラマンの街ですからね。じゃぁねー

杉の恵み

花咲き心躍る春を用意するのは、純白の雪に覆われる、秋田の厳しい冬‥。

これは、秋田の酒造会社がラベルに載せた紹介文の書き出し。凛とした情景と空気感、そして春の芽吹きさえ予感させるようだ、とボクまで心が躍る一文です。

わが家の食中酒(兼料理酒)として長らく活躍しているのが、この酒造会社の普通酒。きっかけは以前通っていた庶民的、且つ清潔感漂う割烹にありました。そこで出す日本酒はここの本醸造のみという潔さ。主役はあくまで料理、それに寄り添うのはこの酒、ということでしょう。今はそういうのは流行らないのかもしれませんね‥(笑)

そんなことで、美味なるも潔い店の流儀に感じ入り、二十年来(家では)これに決めた!となったワタクシ。キリッと北国の冬が醸す酒×お弟子さん達の所作も凛々しい割烹。酒に不案内のボクはイメージ優先。なんの疑いもなく旨く感じるものです。

さて、そんなご縁のある秋田について、杉の話をふたつ(どんなご縁だ)。

まずひとつは、何年か前に発売されて以来、気になっていた「秋田杉GIN」というリキュールです。日本三大美林のひとつと言われるのが秋田杉。その秋田杉の香りを閉じ込めたジンだというので興味津々、試す機会を窺がっていました。というか、サッサと買えばいいだけなのですが。

ご存知の通りジンは、穀物原料のスピリッツに植物の香りを溶かし込んで蒸留した酒類です。つまり香りの容れ物か。ジンに共通する規定はふたつ。ジュニパーベリー(という実)で香りをつけること(これがジンの根幹ネ)、度数37.5度以上であること。だそうです、これだけ。なので、日本らしい香りを重ねていくこともできるのですね。

ということで僕の、北の森林が香るクラフトジンとの邂逅‥。正月気分も相まって、口中を清々しい香りが抜けていきました。

もうひとつの秋田杉ハナシは、写真に見える(寅も載る)お櫃(おひつ)のこと。

時は遡ります。会社は辞めたものの、まだ先は見えず、少しの希望と多くの不安を抱えていたころ(今も変わりませんが‥)。

首都圏の百貨店を実演販売で廻っていた、わっぱ製造老舗の名工の前で足を止め、お話しを伺いました。樹齢100年以上の秋田杉ならではの木目細かな柾目、放たれる森の香り、手仕事の美しさ‥。何かを手探り中のボクはすっかり目と心を奪われ、気付けば虎の子の商品券(ウン万円‥)を総動員しての購入となりました(そんなことしている場合なのか‥)。

使い続けて10数年。無塗装のお櫃は、ごしごし洗って乾かして‥とラフに使っています。味わいを増した木肌には黒ずみや凹みがあるものの、ふわり杉らしい香りと吸湿性は変わりません。無塗装の無垢材は思いの外に丈夫、使ってナンボです。

そして今、リフォームの際によく使う床材も杉無垢材。地産地消ならぬ、近(所)産近消の杉材は、ご近所の奥多摩産を多用しています。

そんなこんなで、あれこれ続く杉との縁。今回は杉づくしのお話でした。

いやー、ジンが間に合って良かったわ。お櫃の上にちょこんと寅さんだけでは、ちょっと可愛すぎますからね。

いなかのねずみ

EINSTEIN by Torben Kuhlmann

先日、都心のタワーマンションに住む知人を久しぶりに訪ねました。上り電車の窓には夕焼け小焼け。空が暮れゆく一方で、街が眩しく光り始める時刻です。電車がターミナル駅に滑り込む、改札を抜けて人混みに流されるように向かったのはデパート。(ヒト、多いゎ‥)

お店に行くのもナンだから自宅においで、と忙しい知人の誘い。そんならツマミはオイラが用意すんべ、という訳でデパ地下です。こんなの毎日喰ってたらウチの家計は破綻するゾなどと思いながらも、あれこれ物色中のおばさん(失礼、オラはオジサンか‥)尻目にパパッと総菜を買って、タクシーに。あ、フルーツも忘れずにネ。

それにしても都心のタワーはゴージャスです。車寄せから、エントランス、吹抜のホールにラウンジ、(どうも!なんて挨拶しながら)レセプションも通過。2ヵ所目のオートロックをクリアしてようやくEVホールだ!(ハアハア、遠いナ‥)。超高層タワーの廊下はもちろん内廊下で、床はカーペット。この静謐さ、まさにホテルライクです。当たり前か‥。

固い甲羅に守られたような堅牢な建物、暑い寒いと無縁な完全空調、煌めく摩天楼の眺め、遠く地上から聞こえてくる都会の喧噪。うん、ここは大都会だ、それも、とても快適な‥。

楽しい宴を終え、光が溢れる都心部から郊外に辿り着いての道すがら。実感するのは、夜が暗いということ。でもそれは嫌ではなく、むしろホッとする瞬間でもあります。空気いいなぁ、なんて思ったりしながら、トボトボと‥。

そんな帰途にぼんやりと思い出していたのが、この季節ならではの照明の温かさ。

今月初めの夕刻、ボクが複数住戸を手掛けたマンションの前を通り掛かった時のこと。ウチで販売した住戸の専用庭に(2階に迫るほど)大きなツリーが置かれ、単色の柔らかな光が灯っていました。米国生活の長い素敵な方で、ツリーのサイズも飾り方にしても、どことなくアメリカ仕込み。街の華やかなイルミネーションも良いですが、郊外の夜にはこんな静かな明かりが似合います。夕暮れ時に眺めているだけで、温かく豊かな気分になったことを思い出しました。

そういえば少し前のことですが、あるマンションが冬季期間中のイルミネーションを計画した際に、ボクがお手伝いをしたことがありました。ウチの物件を購入された方が理事になったご縁で、「イケダサンなら室内同様に(安く!)素敵に仕上げてくれるだろう」というもの。嬉しいけど勘違い、こちらはシロウト、コマッタよ!しかしここは引けないところ‥。無給を条件に(だって謝礼はキチンと、と仰るので‥)、デザインと購入器具を提案させていただいたのです(実はデザイナーに泣きついて、タダで相談に乗ってもらったのだが‥)。結果は上々。ちょっと旧めの大規模住宅の中庭に、しっとりと馴染んでいたその明かり。今思い起こすと、先の米国仕込みのお庭に似た、白熱単色の静かで優しい光が灯っていたものです。

住まいの内と外がつながるバルコニーや専用庭。家の中だけでなく、窓の外にも(ツリーじゃなくても、少しだけ‥)明かりを灯してみてはどうでしょう。ぼんやりと灯る光は、外を歩く誰かの栄養になるかもしれません。もちろん自分にとっても‥。

外に明かりを灯すと、夜は鏡のように室内を反射していた窓ガラスが、スッと見通せるようになります。明かりと一緒にバルコニーに置いたグリーンやオブジェが、昼とは違う空間を広げてくれるかもしれません。でも外から丸見えじゃぁ困りますから、ブラインドを足元だけ上げてもいいですね。最近はLEDのソーラーライトも種類が豊富ですから、電源不要、維持費も不要。部屋内から外側へ、春に向けてお楽しみの領域を広げてみるのも良いですね。

バー、バル、バール、 ババール、バルバル

吐く息が白い冬の朝、まだ薄暗い街角の冷えた石畳を歩く。明るく灯る一角は、早朝から開くバール。秋の終わり頃まではガラス越しに、新聞片手の客や店主の様子が見えた。けれども12月も半ばを過ぎると、窓がうっすらと曇り、店内がぼんやりと映るようになる。そんな些細なことで、あぁ冬になったのだ、と思うのだ。

そう、そんな寒い朝は暖かなバールに足が向いてしまう。ドアを開けると漂うカフェ(エスプレッソ)の香り、温められたコルネット(パン)も甘く誘う。抽出するマシンの音、客たちのざわめき‥。サッカー談議、新聞記事をめぐるあれこれが聞こえてくる。そしてカップの中の液体を飲み干すと三々五々、皆が店を出ていく。それぞれの一日が始まるのだ。(※これはイメージです)

寒い冬の朝、暖かく賑わいある店内が目に浮かびます。え、浮かばない? 

香り高いエスプレッソ、そして街角のバールと言えば、これぞ大衆イタリア。でもこれらは以外にも歴史は浅く、エスプレッソが本格的に普及したのは戦後で、その舞台となるバールの由来はアメリカにあったのですって。

気軽なカウンター立ち飲みスタイルのアメリカンバーがイタリアに入ってきたのは20世紀初め。そして同じ頃に誕生したのが、注文に応じて1杯ずつ素早く(即ちエスプレッソ≒急行で)抽出する機械(エスプレッソマシンの原型)。この二つがタイミング良く結合したおかげで、エスプレッソが世に街に出ることになったようです。その後、戦時中に敵国名が外れて(でも同義の伊語がなかったので)単に「バール」となって戦後を迎えます。そしてマシンが改良・量産されたことで、エスプレッソを安く、早く、立って飲める庶民憩いの場所となったバールは、瞬く間にイタリア全土へと普及していったのでした、めでたしめでたし(えらく駆け足ですが‥)。ということで、エスプレッソの誕生と普及には、マシンの開発とアメリカンバーが不可欠な両輪だったわけです。

閑話休題‥。冬の風物詩として思い浮かべるのは、

「結露ですね」(‥?)。

さすがにそれはないでしょうが、比較的旧い住宅に暮らすとなると大なり小なりついて回るのが結露。住まいや暮らし方によって発生の程度は様々、またその付き合い方も十人十色です。極端な話、解消するなら室内外の温度差をなくせば良いのですから(冬にそんなことしたらタイヘンだ‥)。

というわけで、我々と一心同体とも言える結露(そんな心配ご無用!の住まいもたくさんありますが‥)。どうせなら幸せな結露生活をしたいものです。「しあわせは いつも じぶんのこころがきめる」と相田さんが言う通り、心持ちが大事。バールに立ち寄るイタリア人(?)のように、曇ったガラスに冬の到来を知り、思いを馳せてみれば‥

そんなに甘くないんだ! 窓びっしょりなんだよ!

そうです、その通りですね。解決方法は、①ペアガラスに替える※、②インナーサッシを付ける、でしょうか。①:アルミの窓枠は変わらず結露する、②:開閉が面倒である、と一長一短ですが、かなり改善されることでしょう。(※①の場合、管理組合との協議が必要です)

それだけでなく、暮らし方も大事。心掛けることは‥。窓を開ける、換気扇を回す、調理に火を使わない、暖房しない、風呂の湯を溜めない(湯気ね)、息を止める(結構な水蒸気ネ)‥など豊富なメニューがあります(‥ムリアルヨ)。

いずれにしても、十人十色の傾向と対策で、心地よく、穏やかな冬を過ごしたいものです。

ところで、表題にある言葉の羅列は何か意味あるんでしょうか?

「バーバル、ババババ‥? バー、バル?。そうか、意味は全部同じで、言語が違うということだな、ハハン。」

「バーはエイゴ、バルはスペイン語だろう。バールはわかる、エスプレッソだイタリアだ。」

「お次はババールか‥。バザールなら知ってるが、ペルシャ語でイチバだが‥」

「バルバル‥バルバルバルっ? うーん、ワカラン‥」

どうもスイマセン‥

変わらぬものに

上の写真は、物件選びからリフォームまでをご一緒したMさんからのいただき物。同じお店のお菓子を二度もいただきました(モノ欲しそうに見えたか‥エヘヘ)。お住まいの地元にある老舗洋菓子店だそうです。手作り感を残した品の良い焼菓子。シンプルな材料を贅沢に使って作られた美味しさは、駄菓子好きのボクにだってわかるくらい。

後日、たまたまWeb上でこの店を目にしました(普段ならスルーでしょうが、このイラストは!と)。有名店なのですね、地元マダムも子供の頃から‥と紹介されています。載っていた人気商品のひとつが、創業以来のクラシカルなケーキ。あれ、これ食べたことあるぞ。ボクが幾つも物件を手掛ける駅にある洋菓子店のそれと瓜二つ、ケーキの名前も同じです。つまり、多摩丘陵の小さな駅前洋菓子店にもあったということ。

でも、ダミエというそのケーキ、他所(よそ)では聞かないな。もしかして古典的すぎて、もう誰も作っていないだけなのでしょうか。ちょっと気になったので、そのケーキの名前で検索したところ‥、「Mさん地元の洋菓子店」と「こっちの洋菓子店」ばかりが出てくるではありませんか。

流石にこれは何かある(笑)、訳があるでしょ。店に行って聞けばいいのですが、それもナンだから、あれこれ調べると‥

50年以上前に、当時のチーフパティシエが独立して新たに構えたのが多摩丘陵の洋菓子店なんですと。なんと半世紀以上!姿かたちを変えることなく、二つの店で同じバタークリームの生ケーキが作られ続けてきたんですね‥。

名物にうまいものなし、とまで言われてしまう旧いモノたち‥。でも、変わらぬように見えて、実はたゆまぬ進化をしている名物もあるはず。逆にニンゲンの方こそ、時が過ぎてもさほど変わっていないのではないか、なんてね(古典の先人達を思えば、変わらないどころか‥)。長く作り続けられているものには理由があり、どこか人の心(と舌)を温かく、ほっとさせてくれるものです。新しいヒトには新鮮に、ちょっと旧いヒトにはノスタルジックに‥。

美食や新味、斬新さを求める高級洋菓子は、リフォームに例えると(無理あるケド‥)デザイナーや気鋭建築家のリノベーションでしょうか。だとすれば、心と舌(と財布)に優しく、ちょっと懐かしい洋菓子は、無垢材や汎用品を用いてつくる素朴なリフォームに似ているかもしれません。

とすれば当然ウチは、高級菓子でなく懐かし系の洋菓子、いや駄菓子か‥。そう、放課後の駄菓子屋のほうがぴったりだ。いまだに駄菓子みつけて喜んでいるし(笑)

Mさんもそんな感じでご一緒いただいていたのかもしれません。住宅は人の手で造るモノであって、工業製品じゃないから、とか。そうですね、だいたいそんな感じで結構です、とか(笑)。それでいて、ご自身の好みが存分に反映された素敵な住まいになりましたから。

だとすると、先の洋菓子店のいただき物がよい塩梅に思えてきます。更には、50年をも遡る同じルーツを持つふたつの洋菓子店、それに加えてMさんとのご縁にも不思議なつながりを感じたわけです。

木洩れ日

秋も最終コーナー。夏には頭上から照りつけた太陽も、あれよという間に低くなり、樹々の間から顔を出しています(木と自分の位置関係によりますね‥)。風に葉が揺れるたび、部屋の壁に映る影がきらきらと光る午後、晩秋を実感します。

テラスにひらひらと舞い降りていた枯葉が、ある時ドサドサ(!)と降ってくると秋も終わり。すっかり葉の落ちた枯れ枝を通して届く光は少し弱々しく、まるで自分が林の中に入り込んだかのような気分になります。

晩秋から冬にかけて、そんな木立の中に注ぐ「木洩れ日」は穏やかで心に染み入ります。一方、同じ「木洩れ日」でも躍動感があるのは、夏の強い陽射しと青葉がつくる光と影。季節によって全く違う顔を見せる木洩れ日です。聞くところでは、この木洩れ日という表現に(直接)対応する英訳はないのだそうですね。光と枝葉と影、これらが創る世界の切り取り方は日本独特のものなのかもしれません。

ちなみに、木洩れ日は季節を表す季語でもないようですから、「木の間から日が洩れれば、即ちこれ木洩れ日」ということでよいのかな。(違っていたら、失礼‥)

ふと「こもれび」で思い出したこと‥。

関東平野が途切れた先、山々が連なる丹沢エリア。その東端には幾つかの温泉が湧き、小さな宿が点在しています。厚木からほんの少し山に入るだけ、と都心部から至近、もしかしたら最も近い温泉郷かもしれません。

旅行に出掛けよう、と気負うこともなく其処に居る。そんな、日常の傍らにある身近な非日常、とでもいえる場所。ただ、ふらりと夕焼け小焼けを見に行くような‥。

そんな山の懐に、晩秋の木立ちが似合う素朴だけれど端正なお宿があります。そこに付設する小さなバー空間の名前が「こもれび」でした。バーとはいうものの、少し早めの到着時や夕暮れ時、もしくは風呂上りのビールを一杯楽しむような、ささやかな場所です。

二十年来、幾度も訪ねたそのお宿。山の食膳、漆の浴槽と豪華ではなくとも人の手が入った居心地の良さがあります。最近は随分とご無沙汰ですが、木洩れ日という言葉とともに、晩秋の東丹沢を思い出しました。

時間とお金を掛けた華やかな旅行はもちろん格別ですが、日々の暮らしの隙間に置かれた小さな旅、それも良いものです。

いよいよ冬が近づいてきます‥

かくれんぼ三つかぞえて冬となる -寺山修司-

振り向くとそこには‥。

それならば、ひとぉ~つ、ふたぁ~つ、と、ゆっくり数えてみようかな(笑)

ノマド ー 放浪と旅 ー

終わりがあるのが旅。

旅をするのは帰るため。

終わりのない旅は放浪でしかない。

伊豆大島を舞台にした深夜ドラマに、そんな(感じの)セリフがあった。片桐はいりさん演じる主人公は裁判官を辞め、この島に辿り着いた。そして港の小さな居酒屋で働いている(毎回必ず、客の目の前に焼きたての「くさや」が出てくる‥笑)。彼女がある日の客に「もう明日は帰るの?」と問うと、島をふらりと訪れていたそのサラリーマン男性は、冒頭のような意味の言葉を発した。

それを観ながらボクは、「放浪でしかない」と言うけど「放浪もいいじゃない~」と思ったが、すぐに「そうだよねー、実際問題として放浪というのは難しいよねー」と思い直す。放浪という響きにはロマンがあるけれど。

そう言えば、よく耳にする「終わりのない旅」というのは「放浪」と違うのか?‥まあいいや。

‥放浪かぁ‥

春のことだから少し前になるが、久しぶりに大スクリーンで映画を観た。ノマドランドというアメリカ映画。ノマドと聞けばアジアや中近東の遊牧民を想うが(ボクは北アフリカの砂漠の民も想起してしまう)、この映画では、自ら大型バンを駆って(暮らしながら)大陸を移動し、季節労働、非正規労働で日々の糧を得る人々を指すのだろう。主人公も夫を亡くし、その勤め先だった企業城下町ごとの閉鎖という憂き目にあった。

米国社会に広がった格差と、その足元での過酷さが描かれている。その一方で、アメリカが生まれながらに持つ遺伝子(とでも言うのか‥)、つまり広大な大地と、そこを移動しながら何かを希求し続ける強さを感じる映画でもあった。凍てつく山々や地平線の向こうへ進もうとする主人公の中に、タフで骨太な、何か希望のようなものさえ見えたように思う(単なる主観です)。

とは言ったって、アメリカだって無限ではない。事実、西の果てには海があり、南に行けば国境の町があるのだから。以前、何かで読んだのだが、南の最果てには、放浪の末に辿り着いた者たちによって開拓された農園があるのだという。たぶん、放浪にも終わりがあるのだろう。

ところで、冒頭の「伊豆大島への旅」に絡めて思うこと。たしかに船での移動は、それが単なる「移動」ではなく「旅」のようだ。それがほんの僅かな乗船時間だとしても。港を出る、海から対岸へ、そして港へ。ただそれだけで旅になる(旅する気分になる、と言った方が正解か)。あぁ、やってきたな、と思うのだ。

冒頭の彼が言う通り、旅には終わりがあり、そこには港がある。例えるなら、住まいは日々の暮らしにおける港だろうか。一日の航行を終えて帰港するように、家路を急ぐ。明かりを灯し、荷を下ろす。あぁ、帰ってきた、と安堵できる場所であると良いと思う。

先日もひとつ、小さな港が完成した。壁に嵌め込まれたのは、複数のステンドグラス。かつてのご実家の一部であり、その後は大切に保管されていたという建具。そして今、時空を越えて新しい住まいに継承された。とても温かで、唯一無二の港になったと思う、にゃあ(港には猫が似合う。事実、この港には猫がいるのだ)。

きらきら光る

ここは津和野ではありません(‥わかるよ)。それでも、幅広い水路と石積み(風)の護岸があり、秋の陽射しを反射しながら水が流れる風景は、普段見慣れた街角とは少し違って、ゆったりとした気分になります。水路の中に鯉は見当たりませんね(笑)

多摩川にほど近い町の一角。この辺りは400年以上も昔に、多摩川の水を引き込んで新田開発された歴史を持つ地域です。この水路もその末裔でしょうか。100m程続く開渠になっており、大区画の敷地がそれぞれ橋を渡して接しています。従前からの屋敷のようですから、昔の面影を残す風景と関係があるのでしょうか(水路は官有でしょうが)。

ところで‥。ボクはこの「水路のある町」に程近い「丘陵エリア」で、リフォーム&販売を随分と手掛けてきました。その反面、(思い起こすと)そこから坂を下った多摩川沿岸エリアは殆ど実績がありません(近いのにちょっと極端ですね…)。最寄り駅までフラットで近い、ということは買い物などの利便性も(それなりに)高く、日常生活には却って好適です。というよりむしろ、平坦地が好まれる方の方が多いですよね。

逆に、丘陵(急陵とでも書くべきか‥)を選ぶのはちょっと物好き‥。いやいや、違いの分かる人‥と、いうことにしておきましょう。いずれにしても緑のある風景はいいですね。

つまりボクは坂道があり、そして(必要以上に‥)樹々の茂る場所をつい選んでしまう。その積み重ねの結果として、物件が偏在したということ。便利だから、人気だからという理由では、なかなか別の方に目が向かなかったのですね。

そうは言っても、水のあるところは素敵な場所が多いです。東京から見て多摩川の先(川の先、即ち川崎)と言えば二ヶ領用水。前述の通り400年以上前から田を潤してきた水のみち。川崎市北端部の多摩川から取水して平坦地を巡るく二ヶ領用水の本流は、(現在では)水辺と緑の散策路として整備されている箇所が多くあります。桜の名所であるにとどまらず、日常の風景として街に溶け込んでいる。言うならば、生活道路ならぬ生活水路とでも呼びましょうか。当たり前のようにそこに在る、そんなさりげなさです。

ずっと昔、ボクの祖父さんがオトーサンだった頃、有名な二ヶ領用水の桜を見るために一族で都心からはるばるやってきた。けれど(なぜか)見つからずに諦めて帰ったとさ、と聞いたことがあります。ということは、ボクにとっても因縁の二ヶ領用水‥。「お祖父さん、確かにここの用水路と桜は見事ですよ‥。」

そんな二ヶ領用水とそこに茂る樹々を臨む、素晴らしいロケーションの中古マンションが幾つか存在しています。以前から気になっているのですけど、なかなかご縁はありませんね‥。